崖っぷちに立つ孤高の天才。ジュリアナの祟り・江夏亜祐を紐解く
|江夏亜祐、1986年1月9日銀座生まれ。表紙を飾る「イベントマガジンBANZAI2019年お正月号」の配布日は1月9日。彼にとってはファーストメジャー・シングル「バブリー革命」の発売日、レコ発記念の新宿LOFT公演という晴れやかな日であるとともに、自身の、決して若いとは言えない33歳の誕生日でもあった。
崖っぷちに立つ孤高の天才33歳、江夏亜祐。その音楽のルーツを探る。
バブル期に生まれた異端児
祖父の時代から多くの土地を所有していた上に、築地市場で貿易をしていた父。バブルが始まった年と言われる1986年に生まれた江夏亜祐の家族はその時代を謳歌していた。ベビー服はDIORのみ・離乳食は生の鯛から作る・幼稚園は名門子女が通う目白の豊明幼稚園・物心つかない時期からの海外への家族旅行・・・グアム、ハワイ、インドネシア、オーストラリア。そして単身でも繰り返し行ったというオーストラリアへの語学留学。一人っ子だという彼に期待され費やされる教育も半端ではなかった。塾・家庭教師・英語塾・英会話。しかし、小学校受験では殆どの親戚が通ったという「慶応義塾幼稚舎」をはじめとする一流小学校はすべて失敗。親戚の中では異異端児のレッテルを貼られることになる。
音楽はニューミュージック好きの両親から
しかしそれでも両親の愛は止まらない。両親からの江夏亜祐への無償の愛は音楽の面でも注がれた。両親がニューミュージック好きで、幼稚園の頃からBGMはユーミンとサザン。ユーミンが苗場で初めて行ったセンターステージで人生初のライブ鑑賞を経験する。初めて買ったCDは中島みゆき。サザン、倉木麻衣、宇多田ヒカルも好きになった。その頃見ていたドラマは「ロングバケーション」「ラブジェネレーション」「ビューティフルライフ」いわゆるダブル浅野とは一世代下のキムタク一強時代である。
両親の影響で聴き始めたニューミュージックだが、実は中学校での音楽の成績は「1」とアカデミックでの方向では苦戦していた。しかし、兄弟のように仲良く一緒に遊んできた従兄弟がX JAPANにはまりバンド活動を始め、彼の家にはドラムがありそこでドラムに触れることができたことや高校でフォークソング部に誘われたことでバンド人生が始まった。
プロを目指すきっかけ
高校2年の時に、先輩が作った曲を聴きこれは「絶対売れる!」「こいつと一緒にいたら絶対売れる」と思ったことがプロになることを意識した最初のきっかけだという。「打算的。遺伝子的にショーマンでありビジネスマンなところがある。人前に立つことが好きで、さらに普通にサラリーマンやるより儲かりそう、みたいな感じ。ー母は玉川大学の演劇科出身の女優、父は生粋のビジネスマンでお金好き。その2人をミックスしたのが自分です」
その先輩とは大学2年生までバンドをやっていた。その頃からオリジナル曲を作るようになった。初めてのオリジナル曲はジュリアナの祟りの楽曲の原型になっている「ヒメハジメ」。江夏はバンドのセルフマネジメントも行っていた。お金の出入りを見ているのも好きだったがそれが高じて大学2年の時に1度留年、就職活動中に2度目の留年。
そのバンドは、複数のレコード会社にデモテープを送り、その甲斐もあり江夏曰く「大人の人」がライブハウスにたくさん来るようになった。そして、デビューのオファーもあったという。しかし、「ボーカルはいいんだけど、ドラム下手だよね? ドラム、いる? 」というような話になり、そのことがきっかけで解散となる。
音楽ってなんだろう
解散後1年以上音楽に関わらず過ごしていた江夏。しかし、そんな頃に機会があり「夢人島フェス」に行く。両親が昔から聴いていたサザンオールスターズを見に行きたいというのがきっかけだったが、これが江夏の人生を変える経験となる。
「今まで、自分が音楽をやる理由は「デビューしたい」「有名になりたい」「お金が欲しい」みたいな感じだったんです。でも、音楽から離れていた時にひょんなきっかけで見たこのコンサートは衝撃でした。というか、夢人島フェスを見た時に、今でも自分でも説明できない心の動きがあって、サザンオールスターズはもちろん昔から好きでしたが、Mr.Childrenの紹介映像からが心にずんずん刺さって、自分でもわけがわからず最後の「箒星」で涙が流れました。こんなにも自分を感動させるもの・・・その音楽をもう1度ちゃんとやってみたい。そしてその音楽で誰かを今の僕みたいに感動させたいって思ったんです。」
タタリノハジマリ
時を前後して江夏は、ある「熱い人」と出会い一緒に音楽をやることになった。「熱い人」は音楽に高い志を持ち遠い故郷から東京に出てきた人であった。ふたりは日々語り合い、共感しあい、一緒に音楽を極めて行こうと決意する。そして結成したバンドのメンバーは4人。女性ボーカル、男性ボーカル(熱い人)、ベース、ドラム(江夏)である。実質のリーダーは江夏であり、作詞作曲編曲はもちろん、バンドのコンセプトやパフォーマンスの内容も全て江夏がディレクション しており、現在の「ジュリアナの祟り」の原型ともいえるものであった。時は平成不況、失われた20年のさながらであった。
「自分が子供の頃のバブル景気の映像はよくテレビの懐古的番組で流れてて。すごいなって。僕も大学時代にはよくクラブには行ったのですが、そこではあり得なかったくらいの盛り上がりの映像。ああ、日本って、僕らが青春時代を迎える前にずっとずっと盛り上がってて元気があったんだなって、エンタテインメントを目指す人間としては寂しく思いました。そこで、よし、その元気を日本に取り戻す。俺たちが盛り上げる。俺たちが取り戻すって思いました」。よってバンドコンセプトは、ずっと好きだったサザンや米米などのJ-POPを基調に自身が18、19の頃遊びに行っていたクラブで流行っていたトランスを取り入れれた盛り上げ系の音楽ということになった。
ところが、活動開始後、諸事情によりバンドは解散することに。
「それでもう本当に自分がやりたいバンドやるには自分でやるしかないって思って。それでその頃よく対バンしていた蕪木さん、そしてその後矢島さんもそれぞれのバンドが解散することになったので誘いました。その頃のイメージでは蕪木さんは歌が上手、矢島さんはクールというイメージ。その3人が北野武さんに名前を変えていただく前の前身バンド亜tra鵺Wolf Rayet Starsでした。3人は定着し、その後数人が入れ替わりました」
志は高かったが、実際にはアップダウンを繰り返し、売れないダラダラした時期をもあった。そんな27歳のある日、母親とまじめに就職・人生の話をした。就職もせずバンドマンで毎年歳を重ねていく息子を心配する母に「3年後、31歳の誕生日までに渋谷O-Westでワンマンライブが出来なければやめると約束しました。その時初めて、あと3年したらやめなければならないかもしれない、と思った。だったら悔いが残らないようにしたい、そのためには何をすればいいかと思うようになった。そこで出した結論は、以前のバンドでも試してみたかった、楽器2人のほかにパフォーマーが2人という編成にしよう、と言うことだったんです」
パフォーマー2人の加入で、唯一無二の存在に
「ライブハウスには入りにくい部分もあり、後ろに人がたまってしまう時があってそれが嫌だった。お客さんを前へ前へと引っ張るバンドがやりたかった」
その意味で、楽器を演奏せず盛り上げるパフォーマーを探したが、バンドマンの掲示板では見つからず、ふと思いつきお笑いの相方募集の掲示板で探したところ100件以上応募があった。その中で最初にダンクが決まった。「ダンクはお笑いのソロでいろいとやって伸び悩み、信じてついていくんで一緒に有名にしてください!」という趣旨の応募。その気持ちは大事だなと思ったんでまずダンク、その後はネルが1番よくしゃべったんで、このくらい喋るやつがいたほうが盛り上がるしメインMCもやらせられる。まだ若かったんで勢いがある人が1人欲しいと思って勧誘。最後にネルが加入後半年くらい、毎週2回くらいスタジオで練習しながらライブを作り上げて行きました」
現在と同じ5人のメンバーになってライブを始めてから、2、3ヶ月した頃、BSフジ「たけしの等々力ベース」TVスタッフの方から勧められ「現在売れていないバンド・芸人の名前を北野武が改名させ、売れるようにする」という趣旨の番組に応募したところ書類審査と面談でコンセプトもビジュアルも面白いからと採用され、番組に出演した。江夏を始めメンバーも当日までどんな名前になるかはわからず不安はあったが「どんな名前になってもたけしさんからもらった名前で頑張ろう」という決意は抱いていた。しかし、意外とかっこいい名前になり満足したという。それが2015年3月12日、ジュリアナの祟りの結成記念日だ。
メジャーデビューについて思うこと
「まずは僕を信じて付いてきてくれたファンの皆さん、メンバー、メンバーを支えてくださった家族・友人の皆さん、手伝ってくださったスタッフさんたちにありがとうと言いたいです。また、ミュージシャンの方々、ライブハウスの方々、マスコミの方々、音楽業界の偉い人なのに無名の僕らにアドバイスをくださったり、関わったすべての皆さん本当にありがとうございます。これから出会う皆さんはじめまして。僕たちは音楽とエンタテインメントの力で皆さんを、そして日本を元気にして行きます。是非ジュリアナの祟りを見て、聴いて、元気になって頂きたいです。どうぞよろしくお願いします!」
江夏亜祐(えなつあゆ) (https://twitter.com/ayuing_tatari)
ジュリアナの祟り公式Twitter (https://twitter.com/)
公式サイト (http://tatari.tokyo)